日常ツバメガエシ

スポーツ観戦好きの諸々スポーツ話

各アンテナ先にお邪魔してコメントしたことからノスタルジック

中大の今回より2つ前の優勝、1996年近辺の話。当時はリベロ制もなく*1、各部6チーム制*2。以下、選手名は敬称略。
当時の中大のスタメンは、4年に水野(その後の所属は東京トヨペット新日鐵君津)、3年に臺(JT)・河野(JT→9人制JT東京)・木村(松下電器→現中大監督)、2年に徳元(JT)・浅川(東レ→PATERI→松下電器)という布陣。私はこの年代、実は秋季しか見ていない。とにかく攻撃のバランスの良いチームだった。水野・木村の凄いクイックなんか芸術品だったと思う。中大四冠の輝かしい時期である。
が、翌年の1997年は、中大は一つも優勝できていない。水野しか抜けなかった、しかもそこには斉藤(JT→9人制JT東京)が穴を埋めたのに。東日本インカレはパンパシがかぶって、そちらに各大学が選手を持っていかれたという特殊事情もあったが、それ以外の大会は全員揃っていた。何故かと言えば、当時筑波・法大が安定していた、ということに他ならない。筑波は4年に川浦(富士フィルム豊田合成)・下田(JT)、3年に加藤(所属いちいち書くの面倒なので略)・増村(富士フィルム→長崎教員→TUV)・山口(東レ)・小内(昨日の日記の註参照)。法大は朝日(サントリー→ビーチバレー)・渡貫(東レ)・脇戸(NEC)・藤井(東レ)・桑田(サントリー→日立国分→サントリー)・鈴木孝政旭化成)ないし諸隈直樹(豊田合成)。今考えると、吐きそうなぐらい濃いメンバーで試合してたものである。
私がその2年間で好きになった選手のうちに、下田・浅川というレフトプレーヤーがいた。スパイクは技巧派でサーブレシーブの要。地味なプレーヤーだったが、いなければまずチームが安定しない。そんな選手だった。
そういうタイプのプレーヤーは総じて好きなのだが…ふと考えると、彼ら以来、大学リーグでそういうツボをつくような選手に、あまり会っていない、そう気づいた。そしてよく考えると…サーブレシーブはリベロ制度によって軽減され、レフトはその分攻撃力を重視されるようになったのではないか、そう思い当たった。
ルール上の流れだから、仕方のないことなのかもしれないけれど…ちょっと寂しい気がする。丁度その過渡期にあたった下田も浅川も、実業団に入ってから、リベロポジションに挑戦して、なかなか芽が出なかったことを考えると、特に。

*1:関東大学リーグのリベロ導入は1998年シーズンより

*2:8チーム制になったのはやはり1998年シーズン。1998年は学連革命の年と思っている。余談だが、1998年の学連委員長は、現東京三菱銀行の谷口選手